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金閣を13年ぶりに訪れて思うこと~中学生の頃は金閣が一度焼けて再建されたことなんて知らなかった~

みなさんこんにちは。このブログを書いている東急三崎口です。

今回も雑記です。雑記4連投になっちゃいました。明日こそ本来のテーマであるカラオケの記事を上げる予定です。前回の雑記では色々な地方に住んだからこそ思う方言の文化的特性について書きました。今回は、京都にせっかく引っ越したので金閣を13年ぶりに行ってきたときに思ったことについて書きます。初めて金閣を訪れたのは、中学校の修学旅行でした。その時10代前半でしたが10年以上経ってから改めて訪れてみると、当時とは違った見方になるもんだなぁと時間の経過を思い知らされました。この記事の前半は、実際に金閣を訪れたときに見えた金閣の感想で、後半は金閣が一度燃えたことを念頭に置いた個人の感想になっています。

中学校の修学旅行以来の金閣訪問

私が始めて金閣を訪れたのは、中学校の修学旅行で京都・奈良に行った時です。修学旅行で京都と奈良に行くのは、よくあるパターンかもしれません。地域によって、修学旅行で行く場所は変わるんでしょうが、九州だと関西くらいが手頃な距離だったんだと思います。移動時間的にも、新幹線で3時間弱で着くのもメリットかと思います。1日目が奈良で、2日目が京都を回る日程になっていました。2日目の京都に関しては、班別の自由行動でどこに行ってもいいことになっていました。とりあえず、プランを立てて回るわけですが、その当時なぜか東寺には絶対に行かないといけない制限が課されていました。なぜ東寺に行かないといけなかったのかよくわかりませんが、とりあえず絶対に行かないといけなかった東寺と金閣に行ったのは覚えています。他にどこを回ったのかは、今となっては覚えていないんですが、金閣に行ったことは覚えているので、当時としては相当印象に残ったんでしょう。

中学生の頃は本当に金箔が貼ってあるんだなぁくらいにしか思わなかった

今回、中学生ぶりに金閣に行ってきたわけですが、金閣に行ったことが無い人は、日本人だと少ないんじゃないかと思います。京都観光で行くスポットとしては、かなりメジャーな部類に入ると思います。中学生の修学旅行の日は、雨が降っていたような気がしますが、雨が降っていても金閣は金閣でした。曇っていたので、日が差しているわけではないですが、外壁の金箔は光って見えていました。実際に、それを見てきれいだなぁくらいにしか当時は思わなかったわけです。今回金閣を訪れたときは、晴れていたので想像通りの金閣を見ることができました。

このご時世でも観光客は絶えない

というわけで、先日金閣に行ってきたときに印象に残ったところを紹介します。まず、入る前に目にとまったのがこのベンチです。

「このベンチは先生方のチェックポイント用です」と書かれた札が立っていました。これって、修学旅行生が使うのを前提にしてる証拠ですよね。それだけ、観光としての需要が高いことを象徴しているんだと思います。逆に、こんなコメントが書いてあるベンチって京都にしかないんじゃないんじゃないのかなと思います。修学旅行スポットで他にもあるのであれば、すいません。

次にくぐったのが、この門です。

iphoneで撮ったので、少し傾いているんですが立派な門が建てられています。だいたい観光客は金閣を見にくるわけですが、金閣はお寺の境内にある別荘だったわけで、お寺の中に入るわけですね。拝観料も払いましたが、大人一人で500円でした。1000円くらい払わないといけないと思っていたので、良心的な価格設定でちょっと拍子抜けしました。金閣はネームバリューが圧倒的に高いので、一人当たりの拝観料を高くしないでも訪れる人の数が圧倒的に多いのでやっていけるんでしょうかね。一人当たり500円だとしても、100人で5万円だと思うとすさまじい額が拝観料として入ってくるんだと思います。

順路に従ってしばらく歩くと、今回のお目当て金閣が見えてきました。見たことない方は少ないと思いますが、一応本物を上げておきます。

天気が良かったので、手前の池の水面に反射して金閣が見えているところに風情があるように感じました。何度訪れても思うんだと思いますが、外壁に張られた金箔の存在感が圧倒的ですよね。こんな建物は、世界を探してもそうそうないんじゃないかと思います。とはいえ、あとから触れますが現在建っている金閣は1950年に一度焼けたものを再建した建物なので、再建される前はこのような見た目ではなかったようです。

金閣と通り過ぎて、しばらく順路に沿って歩いているとこんなものがありました。

立て看板には、「銀河泉 義満公 お茶の水」と書いてあります。これを見たときの第一印象は、これ本当かよって感覚です。義満公と書かれているのは、おそらく足利義満のことでしょうから、約1000年前に使われていたってことになります。周りの岩の苔むした感じを見ると、古いものには間違いないんでしょうが、それにしても本当に足利義満が使っていたのかと思ってしまいます。そもそも、1000年近く前にどこの泉を使っていたかどうかを書き記した文献が現代まで残っているなんて、きわめてまれでしょうし。というわけで、私自身はこの泉の足利義満が使っていたということは信じていませんが、文献が残っているのであればコメント等で教えていただけると幸いです。

順路の最後の方に、こんなものがありました。

足利八大将軍義政公、遺愛富士型手水鉢とあります。これも、本当かよと思ってしまいました。富士型の手水鉢なのは、わかるんですが、本当に大昔に使われていたのかどうか疑問です。ある程度古いものには間違いなんでしょうが。

というわけで、金閣を回った時の話はここまでです。ここからは、先ほど少し触れましたが金閣は一度燃えているということにフォーカスして、金閣について書いていきます。

一度燃えた金閣

みなさんは、金閣が1950年に一度放火されて全焼したことはご存じでしょうか。私は、中学生で初めて金閣を訪れたときは知りませんでした。金閣が燃えたことを知ったのは、高校生の頃に三島由紀夫さんの小説「金閣寺」を読んだときです。実際に起こった金閣寺が燃えた事件をもとに書かれている小説です。読んだことは無いけれども興味がある方は、下のリンクから購入できます。


表紙に炎らしきものが描かれていますが、金閣寺が燃えたことを暗示しているようです。金閣寺放火事件のことは、wikipediaに結構詳しく書いてあります。概要としては、1950年7月2日の未明に金閣から出火し、消防隊が駆け付けたが炎の勢いが激しくなすすべなく金閣は焼失してしまった。普段人気のない場所から出火しており、付近の寝具が残っていたことから、関係者と調べていくと金閣寺の見習い僧侶だった一人が行方不明になっていることが判明し、付近を捜索したところ金閣寺裏の山中で自殺を図りうずくまっているところを発見された。容疑者は一命をとりとめ、金閣寺を放火したことを自供した。大まかな流れとしては、金閣は見習い僧侶に放火され犯人は自殺を図ったが一命をとりとめたということになります。金閣寺の見習い僧侶が放火しているということは、内部の関係者が金閣を放火していることになるわけで、世間には衝撃を与えたでしょう。犯人の動機としては、複雑な感情が渦巻いていて結果として金閣を放火することになったということです。結果的に、金閣は全焼し金閣の中に置かれていた国宝も焼失しています。

金閣を燃やした犯人はどこから入ったのか

私が金閣を訪れたときに実際に見てみたかったのは、金閣寺を放火した犯人はどこから金閣に入ったのかということです。金閣は正面が池になっていて、正面から泳いで入ることは普通はしないでしょう。裏側には陸続きになっている部分があるんでしょうが、周りからの見通しが良いと犯行が困難になるのではないかと思っていました。実際に放火されたのは未明なので、金閣寺に観光客はいないでしょうし、見通しがよかろうと悪かろうと放火は可能だったかもしれません。しかし、放火されたときに犯人がどこから入ったのかを見てみたいと思い金閣の裏手を見ました。

左側の写真の柵の手前が観光客が歩ける通路です。そこから、白い石の道らしきものが出ています。観光客は入れませんが、白い石の道は金閣につながっていて、右側に進んでいくと、右側の写真のように金閣にたどり着きます。おそらく、金閣を放火した犯人もこのあたりから金閣に入って放火したんだと思います。

美への反逆心

犯人が金閣を放火した動機の一つとして、金閣寺は拝観料収入で運営されており僧侶より事務職が幅を利かせていて厭世感情からくる複雑な感情入り乱れていたことが挙げられています。美の象徴たる金閣寺に観光客は絶えず訪れ、拝観料を払っていく。これは、つまり美の象徴たりえる存在であれば、存在するだけで人々が集まり、収入を得ることができると捉えることもできます。一方、そこで見習い僧侶となっている犯人自身の境遇を比較すると、美の象徴たる金閣に対する嫉妬が芽生えたと言われています。この嫉妬から、美の象徴たる金閣寺を破壊せねばならないという発想になり、実際に金閣を放火したのではないかと私は思っています。冷静に考えれば、金閣が美の象徴であり、建っているだけで観光客が訪れ拝観料を落としていくのに対して、嫉妬できるかと言われると嫉妬はできないと思います。物に対して「嫉妬」するというのは、もともと嫉妬の意味から外れてきます。嫉妬の単語自体が、人が自分より優れている他人に対して思う感情であり、人間が物に対して嫉妬するのは想定されていない感覚です。しかしながら、金閣寺の見習い僧侶であった犯人は毎日のように金閣を目にしており、毎日観光客が訪れるのを間近に目にしていたと考えると、金閣に嫉妬するという文脈が成立するかもしれません。どんな建物であれ、放火することは許されることではありませんが、美の象徴である金閣を放火してこの世から無くしてしまおうという感情には、とてつもなく大きなものがあったに違いありません。

再建された金閣は"金閣"なのか?

1950年に犯人の放火によって焼失した金閣ですが、1955年に再建されています。明治時代に大修理が行われた当時の図面等を参考にして再建が行われたようです。今建っている金閣は、先ほど紹介した写真のとおり、二層と三層の両方が金箔に覆われています。一方、1950年に焼失した金閣は三層だけに金箔が残った状態だったそうです。二層にも金箔が貼られていたであろう根拠を明治時代の大修理で残っていた材料から推測して、二層と三層を金箔張りにして再建されたようです。ここで、私が思うのは私たちが今金閣寺を訪れて見ることのできる金閣は果たして"金閣"なのだろうか?ということです。というのは、もともとの金閣は1950年に焼失してしまっています。また、再建された金閣は焼失したものと外観が異なり、かつ1950年代に作られているわけですから、一般的な木造建築と築年数としてもそれほど変わりません。つまり、今建っている金閣は観光客を呼び寄せるために外装に金箔を貼って作られた人為的な建物に過ぎないのではないかということです。言い方は悪いですが、歴史的建造物ではなく、観光客を呼び寄せる客寄せパンダと化しているのではないかということが言いたいわけです。

焼け跡のままの方が価値は高かったのではないだろうか

金閣が観光客を呼び寄せる客寄せパンダになっていると考えている私が個人的に思うことは、本当は金閣は焼け跡のままの方が存在価値が高かったのではないだろうかということです。というのは、焼け跡のままであれば金閣の建物を直接目で見ることはできません。しかし、焼け跡や写真は残っているでしょうから、かつてそこに金閣という建物が立っていて、外壁は金箔が貼られていたという過去の事実が伝えられていればそれだけで美の象徴である金閣の存在価値があるのではないかと思っています。焼け跡を見た人々が、目の前に見えないものを想像して美を感じるという抽象的で高度な美となりえたのではないかと思っていますが、仮に金閣が焼け跡のままだったら「金閣寺跡」のような名称の観光地になっていて、今ほど観光客が訪れることもなかったかもしれないと思うと、現実的には再建する以外の選択肢が無かったようにも思います。

ミロのヴィーナス

もし、金閣が再建されなかったとしたら抽象的で高度な美になりえたのではないかという着想は、高校生の頃に現代文の教科書に載っていた「ミロのヴィーナス」という評論の内容から得ました。ミロのヴィーナスは、現在はルーブル美術館で展示されている作品で(私自身、現物を見たことはありません)、古代ギリシア時代の彫刻だとされており、1820年にミロス島で発見されたそうです。女神をかたどった彫刻ですが、他の彫刻と決定的に違う点が一つあります。それは、両腕が失われているということです。一般的に、人をかたどった彫刻で手を作らないというのは不自然なので、作られた当時は腕が存在したものの、発見されるまでの間に失われたと考えられています。現代文の評論に載っていた「ミロのヴィーナス」の作者は、ミロのヴィーナスは両腕が失われているからこそ、もともと腕がどうついていたのかは見る人々の中で想像されるため、単なる像ではなく普遍的な美の象徴たりえたのではないだろうかということを述べています。これを読んで、高校生の頃思ったこととしては、腕を「失っている」ことで「普遍的な」美を獲得したということがあまり腑に落ちなかったわけです。そりゃあ、女神の像なんですから、本来的には腕がついていたならそれがそのまま残っている方がいいに決まっているじゃないか、と高校生の頃は思っていました。しかし、今考えてみると、ミロのヴィーナスに両手がついていたとしたらは同時期に作られた女神像と同列に扱われていたのではないかと思います。その理由は、女神像に腕がついているのは当然のことであって、腕がついていることは特段の価値を持ちません。かつ、人々が「もともとどんな腕がついていたんだろうか?」と想像することもなかったわけです。そう考えると、ミロのヴィーナスは両腕を失ったことで人々が思い思いの腕を想像することが可能になり、腕を失った代わりに普遍的な美の対象たりえたのではないかということは非常にわかりやすい内容だと思います。実は、同じことが焼失した金閣にもいえるのではないかと思ったわけです。金閣は1950年に焼失しているわけで、その当時は焼失する前の金閣を見たことがある人もある程度いたんでしょうが、100年も経てば焼失前の金閣を見たことがある人はいなくなります。そうすると、焼失前の金閣を見たことのない後世の人々は、金閣の跡地を見て金閣がどう建っていたのか想像することしかできないわけです。そうすることで、目の前に存在している建物としての金閣よりも高度な美となりえたのではないかと考えています。

次に金閣が再建されるとすればいつだろうか

さて、金閣について書いてきました。放火は許されることではありませんが、天変地異は人間の都合にかかわらず起こります。仮に、次に金閣が再建されるとすればどんなタイミングでしょうか。可能性としては、大きな地震が起こって金閣が倒れてしまう場合や、火事・雷で焼失してしまうことが考えられます。雷対策としては、避雷針がちゃんと作ってあったように思うので、リスクは低いでしょうが、周りに雷が落ちて周囲の火災に巻き込まれる可能性は否定できません。かなりリスクは低いでしょうが、形あるものはいずれ無くなるのは世の中の理なので、いずれ何かの理由で焼失してしまう可能性はあります。その時に、今建っている金閣と同じものを再建することが本当に良いことなのかどうかを考えるきっかけになればと思います。

もし焼けた金閣を自分の目で見る機会があるとすれば

さいごに、もし焼失する前の金閣を自分の目で見る機会があったとするとみてみたかったものを考えました。まず思い浮かんだのが、金閣と一緒に焼失したと言われている足利義満の木彫りの像です。こういうものも、無くなってしまったゆえに価値が高くなっているのかもしれません。あとは、三層だけに金箔が貼ってあったと言われている金閣を見てみたいと思います。おそらく、今の金閣と比べると派手さは少ないのではないかと思います。二層・三層に金箔が貼られている現代の金閣は、さすがに金押しすぎるんじゃないかと思うところもあります。

まとめ

今回は、金閣を13年ぶりに行ってきたときに思ったことについて書きました。少し長くなりましたが、ここまで読んでくださって本当にありがとうございます。金閣寺については、焼失当時生きていたわけではないので、正確でない表現がありましたら、コメントで教えていただけると幸いです。記事の中でよくわからない点や、内容についてご指摘がありましたら、コメント欄かお問いあわせからご連絡いただければお返事できるようにいたします。それでは、今回はここまでです。次回の記事でお会いしましょう。

雑記

Posted by tokyu351