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人間はなぜ物語を求めるのか~虚構の共同幻想を生み出す必要性があるからだ~

みなさんこんにちは。このブログを書いている東急三崎口です。

今回は雑記です。前回の雑記では秋元真夏さんが齋藤飛鳥についてお話されていたのがとても印象的だったことについて書きました。今回は、いつもと毛色の違う内容ですが、人間はなぜ物語を求めるのかについて書きます。Google検索で調べると、似たような名前のタイトルの本(人 は なぜ 物語 を 求める のか)が出てきますが、これを読んで書いているわけではありません。こんなに似たタイトルの本があると思っていなかったので、そのうち読みます。

人間は一人一人が物語

今回の記事は、いつもと毛色が違うんですが、生きているうちに感じたことを書いています。随筆チックな感じでしょうか。人間はなぜ物語を求めるのかについて考えるに至ったきっかけは、私が高校生の頃にさかのぼります。田舎の普通高校に通っていたので、高校2年生になるタイミングで、文系と理系を選択しなければいけませんでした。その時に、文系は英語と国語が必要だ、理系は数学ができないと厳しいみたいな感覚で、私はあまり国語と英語ができなかったので理系に進んだ覚えがあります。もう10年以上前の話です。あとから振り返ってみると、理工系に進もうが高校生の科目として点数が取れるかは置いておいて、英語も必要でしたし、文章という形でなくても言葉で人に説明することはもっと必要でした。高校生の頃の文系理系の選択で、英語と国語が不得意だから理系に進もうという判断は、完全に間違っていたことをのちの人生で思い知らされます。とはいえ、数学ができないと理系の道を歩むのは茨の道なので、どちらがよかったのかわかりませんが。

理工系だと、大学の学部4年生あたりで研究室というものに配属されます。そこで、英語の論文を読んだり、自分の研究成果をまとめて発表したり、結果を論文にまとめたりすることが求められます。日本の学校教育についてどうこう言うのは本筋から外れるのがあまり書きませんが、大学で研究をするときに求められることについて、学生が教育を受ける機会って本当に少ないと思います。それでも、アカデミックの世界に残る方々はそういう能力が高い人たちが選抜されていくので、結果的に問題ないのかもしれませんが。

大学を卒業してから、企業で働くことになりました。エンジニアとして働くことを選んだので、基本的には何かしら実験や試行をして、その結果をまとめて、次の実験に進むことを繰り返していくことになります。ただ、実験をやった結果自体は事実だけれども、その事実をストーリー立てて説明する必要が出てきます。もちろん、大学の頃も必要でしたが、企業に入ると上司やその上司、下手するともっと上の上司にまで説明する必要が出てきます。それが良いかどうかは置いておいて、報告するレベルが上であればあるほど、実験事実ではなくてストーリーをどうするかということに注目が行きます。これを不思議なもんだなと当時の私は思っていました。

なぜ、不思議だと思ったかというと、「実験事実」は変えようのない事実ですが、事実を説明するための「ストーリー」は、いかようにも作ることができて、悪く解釈すると聞き手に都合がいいようにも、話し手に都合のいいようにも組み立てられてしまうからです。できていないことを、さもできているかのように話すこともできますし、伝えかたによってはできていることをできていないように話すこともできるわけです。

都合のいいストーリーを組み立てるために、ストーリーに合わない部分は見ないことにして、都合のいい部分を選んでいくことで、さもできるかのような話が出来上がっていく。しかも、そのストーリーを作ることにかなりの時間を費やさなければいけないとすると、気が進まないようにも思っていました。

ストーリーを作ることに対して、あまり肯定的な気持ちはありませんでしたが、最近ふと、人間は生まれてから今までの人生を時系列で並べると、一つの物語なのではないかと思うことがありました。自分が生まれてから今まで生きてきた人生を文章にすれば、一冊の本は書けるだろうと言われているので、人間は生まれながらにして、一つの物語を紡いでいるとすると、物語のストーリーを考えることは肯定してもいいのではないかとも思うようになったわけです。物語のストーリーを決めることは、人間に例えると自分の人生をどう生きていくかを決めていくようなものです。

身近にある実体のないものたち

さて、ストーリーを考えることについてあれこれ書いていたらもう2000字に近づいてきています。ちょっとここで、身近にある実体のないものについて考えてみます。実体のないものというと抽象的ですが、ここで例に出すのは「国家」「お金」「会社」です。

国家について辞書的な意味を調べてみると、「一定の領土とそこに居住する人々からなり、統治組織をもつ政治的共同体。または、その組織・制度。主権・領土・人民がその3要素とされる。」とあります。主権・領土・人民が3要素とされると書いてあるとおり、日本に住んでいれば日本の領土の上にいるわけですし、アメリカに行けばアメリカの領土の上にいるわけです。よくよく考えてみると、自分が住んでいる場所が今は日本の領土かもしれませんが、日本でなくなる可能性もあるわけです。というのは、例えばですが他国から侵攻を受けて、翌日から日本が東西に分割されることになり、西日本は中国に、東日本はアメリカになったとします。そうすると、それまで信じていた日本という国家は一体何だったのでしょうか。領土があるがゆえに実在する感覚を持ってしまいますが、国家というものはそもそも人々が存在していると信じている抽象的な概念であり、一種の虚構だったということがわかります。今実在する国家をベースに考えているので、あり得ないだろうと思われてしまうかもしれませんが、歴史的にローマ帝国は存在しましたが今はありませんし、これから新しい国家が生まれる可能性も大いにあります。

次に、お金について考えていきます。お金の辞書的な意味は「貨幣。金銭。また、財産。」と出てきます。端的でわかりやすいですね。ここでもちょっと考えてみると、お金は貨幣・金銭とありますが、普段使っている紙幣や貨幣に、額面と同じだけの価値は無いです。1万円は火を付ければ燃えてしまいますし、貨幣も1円硬貨すらそれ自体に使われているアルミニウム自体の価値は1円以下です。また、超インフレが生じたとすると、今持っている1円の価値はどんどん下がっていくので、今100円で買えているパンが1万円出さないと買えなくなるかもしれません。お金は、貨幣や紙幣が実在するので実際にあるもののように感じてしまいますが、実はそういうわけではなく、多くの人が1万円札には1万円の価値があると信じているから成り立っている一種の虚構だとも考えられます。例えばの話、日本の1万円札をアフリカで出したとしても、おそらく受け取ってくれる人はいないと思います。(アフリカで実際に使ったわけではないので、もしかしたら受け取ってくれる人がいるかもしれませんが。。。) 1万円札自体は何も変わっていないのに、日本だったら受け取ってくれる人がいて、アフリカだと受け取ってくれる人がいないのは、受け取る人が1万円と書いている紙に、1万円の価値があると信じていないからです。これが、金1kgだったら古今東西だいたいの人は受け取ってくれるかもしれません。1万円札と金の違いは、金は価値があるものだという認識が場所や時代を問わず普遍的だからでしょう。もちろん、金自体に価値があるという認識が無い人であれば、受け取ってくれないかもしれません。

最後に、会社について考えていきます。会社を辞書で調べると、「会社法に基づいて設立された法人。株式会社・合名会社・合資会社・合同会社の4種がある。」と出てきます。会社は法人ということなので、法人についても調べてみると「自然人以外のもので、法律上の権利義務の主体とされるもの。一定の目的のために結合した人の集団や財産について権利能力(法人格)が認められる。」とあります。自然人は普段使う言葉ではないので、定義を明らかにすると「法律で、権利・義務の主体である個人。近代法では出生から死亡まで完全な権利能力を認められる。」とあります。つまり、会社は「法律の権利義務の主体とされる、個人ではないもの」ということになります。これって、すごい抽象的だと思いませんか。個人ではないことは明らかですが、じゃあ実際何なのかと言われると、法律上の権利義務の主体とされるものでしかなく、これも一種の虚構に近いともいえます。会社は、名前があったり、建物があったり、会社に勤めている人はいますが、「会社」自体は実在しない抽象的な概念でしかないと思えてくるわけです。

共同幻想で生まれる虚構

前説で、「国家」「お金」「会社」を身近にある実体のないものの一例として出しました。こういう、人間が生み出した一種の虚構は、多くの人がその存在を信じていないとあたかも存在するかのようなものになることはできないはずです。人間はそれをなぜ生み出すことができるのかと考えてみると、自分の考えを人に話すことで他人に対して共同で幻想を伝えることができるからなのではないでしょうか。幻想が文字通り、存在しないものだと思われてしまったら、多くの人が共同で幻想することには至らないわけですが、国家・お金・会社は、よくよく考えてみると一種の虚構なわけです。それを、多くの人が信じるためには、それが信じるに値すると思われる物語が必要になるわけです。

人間が生きていくうえで、何かしらの共同体に所属することは不可欠です。共同体を組織するうえで、虚構の共同幻想を共同体に所属している人間が、共有している必要があります。人間が他の人間に、共同体に所属する価値があることを共有するときに必要なのが物語です。つまり、人間が他人と協力して生きていくうえで、必要不可欠な手段として、物語があるわけです。と思うと、人間が何かを伝えられたときに物語を求めるのは当然のことであり、物語が無いことを理解してもらうのは難しくなるのではないか、そして物語を自分で作り出すことができれば他人の協力を得やすくなるのではないかというのが、今回私の至った結論です。

虚構が嘘になるとき

ここまで、虚構の共同幻想の例として、国家・お金・会社を出しました。これらは一種の虚構ですが、虚構が嘘になるとしたらどんな時でしょうか。虚構の共同幻想が嘘になるということは、虚構の共同幻想を信じている人が多数派ではなくなるということを意味しています。会社が一番わかりやすいかもしれません。会社が存在していると思って毎日働いていた時に、突然会社が倒産した場合がわかりやすいでしょう。それまで、実際に存在していたと思っていた会社というものが、次の瞬間無くなってしまったわけです。私は、勤めている会社が倒産したことはありませんが、退職したときに似たような感覚を覚えました。退職する前と、退職したあとでは、自分自身に劇的な変化があるわけではありません。ただ、会社と私との労働契約が切れたというだけです。しかし、退職日の翌日からは、給料は出ませんし(当たり前ですが)会社で毎日顔を合わせて働いていた人との関係も切れるわけです。見方は人によると思いますが、ずっとサラリーマンを続けていると、会社に行って仕事をするのが当たり前で、会社のために働かないといけないような感覚に陥ってしまいがちです。ですが、それが一種の虚構だったことに、私は会社を辞めて初めて気づきました。そんなことがあったので、今回の記事を書いたわけです。

まとめ

今回は、人間はなぜ物語を求めるのかについて書きました。人間が物語を求める理由としては、それが人間が生きていくうえで必要不可欠な共同体を組織するために必要だからというのが私の考えた結論です。長くなりましたが、今回の記事はここまでです。普段と毛色の違うことを書いているので、上手く書けているかわかりませんが、時々こういう記事も書いていきたいと思っています。記事の中でわからないことがあったり、明らかに違うだろうと思われることがありましたら、コメント等をいただけると嬉しいです。次回の記事は未定ですが、読んでくださるとうれしいです。それでは、次回の記事でお会いしましょう。

雑記

Posted by tokyu351