『光と影のTSMC誘致』を読み解く~なぜ陰謀論と言われるのかを元半導体エンジニアの立場から解説~

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みなさんこんにちは、このブログを書いている東急三崎口です。

この記事では、なぜか売れている本『光と影のTSMC誘致』の内容がなぜ陰謀論と言われるのかを、元半導体エンジニアの立場から解説します。

TSMCが熊本に進出することに対して、様々な角度から批判して環境問題や水問題が起こるというのが『光と影のTSMC誘致』の著者の主張です。しかし、『光と影のTSMC誘致』は、半導体を知っている人からすれば、嘘八百の内容に見えます。

著書の主張に対して反論できる材料を持っている人は、読んだときに「こじつけだな」とか「根拠が無い」と判断できるんですが、そういう材料を持っていなければ著書の主張が正しいと勘違いしてしまうわけです。

特に、半導体は仕事などで携わったことが無い方だと、詳しい内容はよくわからないというのが実際のところだと思います。そのような半導体に対して詳しくない人に対して、根拠のないことをもっともらしく書いているのが著書の恐ろしいところです。著書の内容がなぜ根拠が無いと判断できるのかは、いくつか著書の記述を引用しながら解説していきます。

目次

著書で根拠が無い部分を抜粋して解説

著書は、何人かの著者で分担して書かれているので、今回は中心著者である深田萌絵氏の執筆部分を取り上げます。多すぎて全て書くことができないので、代表的な場所を2つ例示します。

まえがき

1つ目は、まえがきの部分です。著書のp3に当たります。

2021年当時、既に285億ドル(3兆9900億円)あった手元現金は、2022年末には516億ドル(約7兆2380億円)まで積みあがっていた。年間売上2兆2638億台湾元(約9兆8000億円)、利益は1兆165億台湾元(約4兆4000億円)という巨大企業に対して、瀕死の国内産業を踏みにじり、日本政府は最大4760億円という巨額資金をTSMC熊本工場に援助したのだった。

『光と影のTSMC誘致』p3 まえがきより引用

この部分を見ると、あたかもTSMCが熊本に工場を建てることで、日本国内の半導体産業が瀕死の状態からさらに厳しい状況に追いやられるのに、日本政府がTSMCに巨額の補助金を出したように見えます。

TSMC(正確にはTSMC・ソニー・デンソーの合弁会社であるJASM)に最大4860億円の補助金の交付が決まったのは事実ですが、瀕死の国内産業を踏みにじりというのがミスリードです。

なぜなら、日本の半導体産業をご存じの方であればわかるとおり、TSMC熊本工場(正確ではないですが、あえてこう書きます)が生産予定の製品は、日本企業はどこも作ることができない世代の製品だからです。つまり、日本の半導体デバイス製造に限って言えば、TSMC熊本工場がやろうとしている部分は、「瀕死」では無く「既に死んでいた」わけです。

あたかもTSMCが国内産業を踏みにじったという書き方ですが、むしろ逆です。歴史的な経緯は置いておいて、現状日本国内ではどの会社も作ることができなかった製品を作るために、TSMCは「わざわざ」日本に工場を建ててくれたという捉え方の方が正確です。

また、TSMCのビジネスモデルはファウンドリです。ファウンドリの場合、作る製品には必ず発注者(買い手)がいます。製品ですら買い手がいるのに、工場を建てる時に顧客がいないわけがありません。

TSMCの熊本工場の隣には、ソニーセミコン(SONYの半導体製造の子会社)の熊本工場があります。つまり、TSMCの熊本工場の主要顧客はソニーのイメージセンサなわけです。TSMCは顧客に要望されて工場を作った、というのが実情です。

まえがきでこの調子ですが、著書はこの調子がずっと続いていきます。

不思議に感じたのが、p223にこのような記述があります。

経産省は40ナノ台で終わった日本の半導体製造を、突然9世代分も技術がかけ離れている2ナノという最先端半導体にも投資を始めたわけだが、(後略)。

『光と影のTSMC誘致』p223 環境に優しいチップの提案より引用

文脈としては経産省を批判するものですが、日本のロジック半導体製造は40nmプロセスまでしか作れないことを、著者自身が認識していることを示しています。

この辺の、日本のロジック半導体製造がどのあたりで止まっていて(40nm世代)、TSMC熊本工場が作ろうとしているノード(28nm世代前後)を認識していれば、TSMC熊本工場が瀕死の国内産業を踏みにじっていないことくらい、わかりそうなものですが不思議なものです。

国家最大の寄生虫

2つ目は、第一章 TSMC誘致の欺瞞の部分からです。著書のp17に当たります。

ただし、寄生虫の方がまだマシである。寄生虫は、宿主は殺さないが、TSMCは台湾人を死に至らしめる毒をまき散らしている。毒、つまり、重金属、発がん物質入りの排ガス、汚染水、産廃物をまき散らし、そのことが台湾では人工透析を受ける率が世界最高となってしまった一因ではないかと疑われる。

『光と影のTSMC誘致』p17 国家最大の寄生虫より引用

著者は、TSMCを台湾の寄生虫だという書き方をしています。重金属・排ガス・汚染水・産廃を出していると書かれていますが、半導体工場では基本的にこういう物質を外に出さないように作られています。

なぜなら、環境基準に抵触するような物質が工場の外に出た場合、最悪の場合工場の操業停止となるからです。例えばの話ですが、年間売上が1000億円の工場が1日操業停止になると1日当たり3億円の売上が飛ぶわけです。そんなリスクを冒して、わざわざ危険な物質を外に出す理由がありません。

また、前提として半導体工場では、重金属や発がん物質いりの排ガスなんかよりも、人体に曝露すると危険な薬品を多種多量扱っています。(過去の記事で、半導体工場で使われている危険な薬品やガスを解説しているので、興味がある方は読んでみて下さい。)

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半導体工場で使われている危険な薬品の一例として、フッ化水素酸があります。フッ化水素酸は、手に直接触れただけで体内に浸透し骨を侵す非常に危険な薬品です。これほど危険な薬品を、工場外に処理せずに排出していれば、周囲の環境に影響が出る前に、毎日働いている従業員の身に危険が及びます。ですので、基本的に危険な薬品やガスなどを処理せずに環境中に排出することは無いわけです。

また、著者はTSMCが排出するガス等の影響で、台湾人の人工透析を受ける率が世界最高になったのではないかという主張をしています。このような主張をするのであれば、まず「台湾が人口透析を受ける率が世界最高である」根拠を示し、「TSMCが環境中に排出する物質と人工透析が必要な状態になることの因果関係」を証明しなければなりません。

因果関係を証明できなければ著者の仮説にすぎず、想像の話の域を出ません。想像の域を出ないことを「一因ではないかと疑われる」という書き方をして、TSMCが「毒」をまき散らしていると断定するのは、残念ながら妄想が書いてあるだけになってしまいます。

半導体工場誘致が問題であるなら検証すべきこと

著書の中で、根拠が無いと考えらえる部分を見てきました。ここからは、TSMCの熊本工場誘致が環境問題・水問題を引き起こすと主張するのであれば、参照しておくべき国内の半導体工場をさらっと紹介します。

要は、TSMC熊本工場の建設で環境問題が起こると主張するのであれば、既に国内にある半導体工場の影響を調査したうえで主張すべきではないかという趣旨です。

熊本:ソニーセミコンの熊本工場

1か所目は、ソニーセミコンの熊本工場です。TSMC熊本工場の隣に建っている、ソニーの半導体の工場です。

そもそも、TSMC熊本工場が建つ前から隣に半導体工場が建っているわけです。新しく建つ工場の問題を指摘する前に、既存の工場がどういう状況か確認するのが先でしょう。本当に不思議なもので、なぜかソニーの既存の工場のことは、著書の中ではほとんど触れられていません。なぜなんでしょうね?TSMC熊本工場に行けば、隣にソニーの半導体工場が建っていることくらい、見るだけでわかるはずなんですが。

熊本:ルネサスエレクトロニクスの川尻工場

2か所目は、ルネサスエレクトロニクスの川尻工場です。

TSMC熊本工場と同じ熊本県にある、ルネサスエレクトロニクスの工場です。九州日本電気時代に建てられた工場なので、かれこれ50年近く稼働している工場です。(1969年操業開始のようです。)

50年以上前から稼働している半導体工場が同じ県内にあるわけで、環境汚染が云々と言うのであれば、まずは調査すべきところなのではないかと感じます。

三重:キオクシアの四日市工場

3か所目は、キオクシアの四日市工場です。四日市ぜんそくが起こった、三重県四日市市にあります。

キオクシアの四日市工場は、日本の中でもかなり規模の大きい半導体工場です。半導体工場は規模が大きくなると、使用する薬品やガスの量が増えます。

また、1990年代に操業開始しているので30年近い歴史があります。もし仮に、半導体工場が環境に悪影響のある物質を「まき散らしている」と主張するのであれば、キオクシア四日市工場の周囲環境を調査すればいいのではないかと感じました。

なぜ読者が真実だと思ってしまうのか

最後に、著書の中で事実で無いことや根拠のないことが書かれていても、あたかも真実のように読めてしまうトリックの内容を解説します。

主張するなら根拠を示さないと本来は認められない

仮に、「TSMC熊本工場が建つことで環境問題や水問題が発生する可能性が高い」という主張をする場合、工場が環境中に排出する物質と排出された物質が環境に及ぼす影響の因果関係を説明する必要があります。

しかし、著書中では「〇〇だと疑われる」とか「〇〇である。」という形で、根拠のない2つの事柄に対して因果関係を示さずに強い疑問の形や、断定の形で言い切っています。このことが、半導体の知識が無い人が嘘のことが書いてあっても、真実だと感じてしまう理由なんです。

悪魔の証明を相手に課して自分の主張を述べているだけ

「〇〇の疑いがある」という形で関連の無い事象を結び付けたり、根拠のないことを結び付けたりすることは簡単です。

かつ、こういう「疑いがある」という主張に反論するのは、非常に難しいです。その理由は、〇〇の疑いがあることに対して反論するには、〇〇の疑いが無いことを示さないといけないからです。

例えば、「半導体工場では事故が起こる疑いがあるから、中で働くのは危険だ」という主張があったとしましょう。こういう漠然とした、○○の疑いがあることに対して反論するには、半導体工場で事故が起こらないことを示さないといけません。

しかし、一般的に半導体工場で事故が起こる疑いを否定することはできません。実際問題事故が起こる可能性はゼロではありませんし、個別の装置は安全だという主張を1つ1つ重ねていっても、「他の工場だったどうなんだ?」と言われると証明はできなくなります。

仮に現在稼働している半導体工場の装置に対して証明できたとしても、未来のことに対する完全な証明はできません。つまり、無いことの証明は悪魔の証明になるので、基本的に不可能です。

「〇〇の疑いがある」から危険だという主張は、主張するのは簡単ですが相手が事実上反論できないので、実際上は自分の主張を言いっぱなしにしたいときに使われます。こういう書き方をすると、主張自体はもっともらしいんですが、著者は意図的に使っているでしょうから、反対意見に対して議論する余地はないと考えられます。

TSMCがなぜ強いのかを知りたい方におすすめの本

最後になりますが、TSMCが世界の半導体デバイスメーカーの中で、非常に強いのは疑いようのない事実です。

著書で、TSMC=悪者というイメージだった方は、なぜTSMCが強いのかが書かれている良書を読んで、本来のTSMCの強みを知るようにしてください。

タイトルは、「半導体ビジネスの覇者 TSMCはなぜ世界一になれたのか?」です。(下のリンク先からAmazonの購入サイトに飛ぶことができます。)

TSMCが作られた頃から現代までを振り返って、なぜTSMCが半導体で世界一になれたのかがわかりやすく書かれているのでおすすめです。

まとめ

この記事では、『光と影のTSMC誘致』の内容がなぜ陰謀論と言われるのかを、元半導体エンジニアの立場から解説しました。

半導体に詳しい方は本の内容を真実だと思われる方はいないと思いますが、半導体に詳しくない方は書いてあることが真実だと思ってしまいますし、この本に対して「内容が真実ではない」という記事を目にしたことが無かったので記事として残しています。

本の内容に疑問を持たれた方がアクセスしてくださったら幸いです。

このブログでは、半導体に関する記事を他にも書いています。半導体メモリ業界が中心ですが、興味がある記事があれば読んでみてください。

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この記事はここまでです。最後まで読んでくださってありがとうございました。

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この記事を書いた人

コメント

コメント一覧 (2件)

  • お疲れ様です。
    反論を一通り読みましたが、正直申し上げますとあまりインパクトがありません。
    敢えて筆者の立場で見た場合、出版を前提に出版内容を決めている以上、筆者の立場には確かにバイアスはがかかっていると思いますが、一つの視点として見てもよいのではないでしょうか?
    半導体の製造工程においてPFAS含有物を含む様々な科学的な合成物質を作ることは紛れもない事実であり、それが自然界と相いれないであろうということはだれでも想像がつきます。
    ポイントは、人類がどうやって、その影響を抑えていくということではないかと思います。

    • KS様
      コメントありがとうございます。東急三崎口です。
      インパクトが無いのは、別に構いません。
      私の視点も、一つの見方だと思っていただければ問題ないです。
      そのうえで、著書の内容が事実に基づく見解であれば、一つの視点としてありえると思います。
      しかし、私は光と影のTSMC誘致に書いてある内容が事実に基づいていないと考えているので、このような記事を書きました。
      半導体工場は大規模な工場だけ見ても、日本に十か所以上あります。
      TSMCの熊本工場以外にも半導体工場は多く存在しており、半導体工場が出す物質が原因で顕著な健康被害が出ているわけではありません。
      また、PFASをはじめとした有機フッ素化合物は、半導体工場でも使われていましたが、他の用途(消火剤等)にも使われていました。
      半導体工場だけが、PFASの排出源であるわけではありません。
      かつ、半導体工場からの排水の水質基準は、水質汚濁防止法によって定められています。
      最後に、あの本は半導体に詳しくない方をターゲットにして、本の内容を正しいと思うように書かれています。
      本の内容の真偽を判定できない方が読んだ場合、本の内容が正しいと思うように書かれているので、
      あの本の内容を一つの視点として捉えた場合、私の書いた記事の内容でも完全な反論はできません。
      何を信じるのかは、自分で決めるべきことなので、私の記事も一つの視点として捉えていただければ幸いです。

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