パワー半導体だとSiの正孔移動度が600cm2/Vsになるのか?を検証

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みなさんこんにちは、このブログを書いている東急三崎口です。

この記事では、パワー半導体だとSiの正孔移動度が600cm2/Vsになるのか?について考えていきます。

※2024/3/1に内容を追記しました

目次

疑問のきっかけ

そもそも、パワー半導体だとSiの正孔移動度が600cm2/Vsになるのか?という疑問を抱いたきっかけは、パワー半導体を扱っているロームの技術紹介のページを見たことです。

こちらのリンク先の図を見て、ふと疑問を感じました。

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パワーデバイスで従来から使われているSiと新材料(SiCやGaN)との物性の比較の表が出されています。

色々な物性値が並んでいて、新材料を適用するメリットとして3つのことが強調されています。

・バンドギャップがSiと比べて大きい(高温動作が可能)
・絶縁破壊電界が大きい(同じ耐圧であれば、ドリフト層の厚さを薄くできる)
・熱伝導率が高い(電流を流すことで生じる熱を効率的に逃がすことができる)

これは、文字通りで特に違和感を持ちませんでした。しかし、私が疑問を持ったのは、従来使われている材料として取り上げられているSiの正孔の移動度です。

Siの正孔(ホールとも呼ばれます。本記事ではあえて正孔という名前で書きます。)の移動度が、600cm2/Vsと書かれていたんです。

Siの物性を調べたことが無い方であれば、「だから何なの?」と思われるでしょう。しかし、詳しい方から見れば、違和感を持たれるのではないかと思います。

Siの移動度は物性値

Siの移動度というのは、厳密に言うとSiに含まれる不純物の量で変わります。

材料の物性値の比較を行う場合には、不純物が少なく状態かつ室温付近での移動度を比較するのが一般的です。

不純物が少ない領域での材料の移動度というのは、結晶を構成している原子による散乱が支配的になるので、ある程度の値で飽和します。つまり、材料の移動度としては、不純物が非常に少ない領域での移動度を考えています。

Siは、1950年代から半導体材料として使われているので、他の材料と比べて非常に歴史が古いです。

つまり、1950年代からの歴史があるわけで、基礎的な物性値はほとんど調べつくされていると言っても過言ではありません。

物性値が調べつくされているSiですが、一般的に正孔移動度としては400~500cm2/Vsくらいの値がよく書かれています。

例えば、「タウア・ニン 最新VLSIの基礎 第2版(日本語版)」では470~480cm2/Vsの値になっています。(p26の図より)

また、固体物理では定番の「キッテル固体物理学入門 第8版(日本語版)」では、480cm2/Vsと書かれています。(p221の表より)

要は、過去の物性評価から、本で書かれるくらいSiの正孔移動度の値は有名で、大目に見ても450~500cm2/Vs程度になるわけです。

論文もちょっと調べてみましたが、Siのバルク移動度について温度と不純物濃度に関して広く振った実験結果を載せているものがありました。(2002年の論文です)

https://d1wqtxts1xzle7.cloudfront.net/71701077/16.98712120211007-21399-aw2ft1-libre.pdf?1633593962=&response-content-disposition=inline%3B+filename%3DElectron_and_hole_mobility_in_silicon_at.pdf&Expires=1707993794&Signature=MqXCpcfadoSgdpcOgS1DrzmTMYKnRpDTuDd9jvJ9nv0mrfE-O3Ye2hfx9QP1OH2fp0z~Ak42yDvj1cW466A7~elSCxV1dZWy3DyHsOIgC4zNcyQS~tdoIXWzEbyFRBjUDHBM-Sh~PQ2CH3gn5UQ8XObHDpYi2IfihacmZiCEXLNq5RGsrXwFmMFTsKStLRkCRjEwFUJy4CHBi0Ge61lCYz26RmsSeezjM779bVlMbsfDcOYBrybZD2TAjZ3im8D-ucWsbZunYDkjCldvU0hSQdqhg6PJoeUEo76SQwplA6MSa08TpIDS-NpnaJ2fPGqJEqcft3JEFemj5zgWbyFlyw__&Key-Pair-Id=APKAJLOHF5GGSLRBV4ZA

この論文中のFig.8が、Siの正孔移動度を表しているわけですが、やはり300K(室温)で500cm2/Vsは超えていないように見えます。

つまり、半導体Siの物性を考えた時に、正孔の移動度が500cm2/Vsを超えるという資料を私は見たことがなかったわけです。

かつ、本や論文でのデータも500cm2/Vsいかないくらいの移動度になっています。

ここで最初の疑問に戻ります。パワー半導体材料の物性を比較した時に、なぜSiの正孔の移動度が600cm2/Vsになるのでしょうか?

考えられる可能性

ここで考えられる可能性を2つ考えました。

1:単純に資料のデータが誤記
2:パワー半導体ではSiの正孔移動度が600cm2/Vsになるエビデンスがある

1の可能性が高いと思っていましたが、この疑問の内容をXでpostしたところ、引用postで面白いソースを見つけてくださった方がいらっしゃいました。

ロームと同じく、パワー半導体を作っている東芝のSiC SBDの紹介ページにも、Siの正孔移動度が600cm2/Vsって書いてあったんです。(下のリンク先です。)

https://toshiba.semicon-storage.com/jp/semiconductor/product/diodes/sic-schottky-barrier-diodes/articles/high-withstand-voltage-reverse-voltage-characteristics-of-sic-sbds.html

見た瞬間、目を疑いました。日本のSiCパワー半導体の2大企業であるロームと東芝が、Siの正孔移動度を600cm2/Vsだと紹介しているわけです。(値がそろっているあたり、不思議です。)

ちなみに、Siの正孔移動度を上げる方法としては、歪みを掛けることが知られています。
(プレーナー型のMOSFETのpチャネル側には、28~40nm世代くらいから使われていたはずです。)

また、SiとGeを混ぜたSiGeでもSi単体と比べて正孔移動度が上がります。Geの正孔移動度がSiより高いからです。(厳密に言うと、正孔だけでなく電子の移動度も上がります。)

とはいえ、今回の疑問は、Siの材料自体の物性を比較するのが目的でしょうから、歪みを掛けたりGeを混ぜたりしたときと比べてもフラットな比較ではないでしょうから、そういう場合の話は除外して考えます。

俄然面白くなってきたので、誤記であろうが、エビデンスがあろうが、どっちにしても確かめたくなりました。

というわけで、各社に確認してみたいと思います。今回は、疑問を感じた理由と、本当にSiの正孔移動度が600cm2/Vsになるんだろうか?という着想の部分を紹介しています。

もし、Siの正孔移動度が600cm2/Vsになるという論文や学会発表をご存じの方がいらしたり、ロームと東芝の解説ページが600cm2/Vsになっている理由をご存じの方がいらしたら、お問い合わせフォームからこっそり教えていただけると嬉しいです。(XのDMでも構いません。)

実際のところどうなのか?

もし回答があれば、追記します。(初回執筆日:2024/2/15、最終更新日:2024/3/1)

※2024/3/1に内容を追記しました

エビデンスがあった

Siの正孔移動度が600cm2/Vsと書かれている件に関して、東芝とロームに確認してみました。(お手数おかけしてすみません。)

東芝さんからはお返事をいただけました。(ロームさんからはお返事が無いですが、1週間待っても特に連絡が無いので、連絡無しということで記事を書いています。お返事があったので、後ろの章で内容を追記しています。)内容はそっくりそのまま書けないですが、結論としては根拠の文献は存在しているが、引用した文献の数値自体の妥当性は検証していないという内容でした。

引用元の文献は、20年くらい前の東芝レビューです。

文献を確認すると、たしかにSiの正孔移動度が600cm2/Vsと書かれています。しかし、文献の中の表に数字が入っているだけで、数値の引用元は書いてありませんでした。

正直な話、企業の公式サイトとしては、「引用元の文献が存在していて、その文献のデータ通りに書いています」というのは100点の回答だと思いました。

企業サイトの作成担当の方が、半導体物性について詳しく知っているわけも無いので、根拠となる文献のデータの真偽に関して検証できるわけもありません。

企業サイトの表示としては、根拠となる文献からデータを参照しているという意味では、「エビデンスあり」ということになります。

これを踏まえると、フォーカスすべきことは、「東芝レビューに書かれているSiの正孔移動度は正しいのか?」ということになります。

引用元の文献の妥当性はどうなのか

ここで考えてみたいのが、東芝レビューの文献としての立ち位置です。

東芝レビューは、「東芝グループの先端技術開発の取り組みや技術成果を紹介する技術論文雑誌です」と書かれています。

先端技術開発の内容が公開記事で読めるのは、非常にありがたいですし、私も東芝レビューを読むことはよくあります。

一方で、学術論文のように査読があるわけではないでしょうから(社内の情報を公開しているのに、外部に査読させるのは考えにくいことです)、Siの移動度のような古くから調べつくされている物性値に関しては引用文献を付けてくださっていたらよかったのになぁと感じます。

Siに限らず、材料の移動度はホール効果測定という方法で測定されます。ホール効果測定に関しては、Semi-journalさんのページでわかりやすく解説されています。

Semiジャーナル
ホール効果測定とは:キャリア移動度の測定原理 | Semiジャーナル ホール効果測定とは?ホール効果測定は「磁場中の半導体試料に電流を流した際に発生する電場(ホール電場)を測定する手法」です。電子・正孔のキャリア移動度を算出すること...

ホール効果測定を行うことで、半導体のpn判定と、多数キャリアのキャリア密度、多数キャリアの移動度を求めることができます。(半導体物性の測定をしたことが無いと、よくわからないと思いますが、とりあえず移動度を測定する方法だと思っていただければ十分です。)

私自身、材料のホール効果測定を実際にやったことがあるんですが、材料にもよりますけど、綺麗に測定するのが結構難しいんです。測定の原理的に、キャリアがローレンツ力によって受ける力を使うので、電流を流しながら磁場を掛ける必要があります。

ちょっとマニアックな話ですが、電流は比較的簡単に測定できるんですが、磁場を測定するのは専用の測定を行わないといけないので(強力な電磁石を使っていて、磁場と電流値の相関関係が上手く取れている装置の場合は別ですが)ちょっと面倒なんですよね。

実際に測定した経験からすると、文献値を上回るような移動度が求められることはあまりなく、2000年代になってわざわざSiの移動度を測定し直すのであれば、相当のモチベーションが無いとやらないと推測されます。

Siの正孔移動度が比較されている表を見ると、従来Siが使われていたパワーデバイスにSiCやGaNを導入することでメリットがありますよという論理構成になっています。

Siの正孔移動度が高く表示されていても、比較対象としてのSiCが不利に見えるだけなので、全体の論理構成は全く問題ありません。とはいえ、Siの正孔移動度を600cm2/Vsと書くのには違和感がありますが、厳しめに評価したんでしょうかね。

学術論文で、Siの正孔移動度が600cm2/Vsになるという文献が見つけられていないので微妙ですが、東芝レビューの数値はパワーデバイスとしてのSiの物性評価としてはかなり厳しめの値を使っているのではないかというのが私の結論です。

Siの物性に詳しい方や、論文に詳しい方で、移動度の件でデータをお持ちの方がいらしたら、教えて頂けると嬉しいです。

引用元は不明だが修正

さて、2024/2/25に内容を追記した時には、お返事を頂いておりませんでしたが、ロームさんからお返事をいただくことができました。ありがとうございます。

内容としては、Siの正孔移動度を600cm2/Vsとしたデータの引用元は不明だが、Siの正孔移動度にしては高すぎるので500cm2/Vsに修正予定とのことです。

社内で検討いただいたようで、感謝ばかりです。正直、引用元の文献で東芝さんが引用されている文献が出てくるのかなぁと思っていました。

なぜなら、東芝とロームのサイト以外で、Siのバルクの正孔移動度が600cm2/Vsになるというデータは、東芝さんが引用されている文献以外で見たことがないからです。

500cm2/Vsのデータは、S.M.Szeの「Physics of Semiconductor Devices Third Edition」から引用されるようです。この前亡くなられたSzeさんの著書で、半導体を勉強された方であれば一度は読んだことがある本ではないかと思います。
(第2版は日本語訳のバージョンが広く売られています。第3版は英語版ですが第2版から内容が追加されています。)

これは邪推ですが、おそらくロームの技術紹介ページを書かれた方は、東芝の技術解説のページのデータを引用したか、人づてに聞いて正孔移動度を書かれたのではないかと私は考えています。

こう考えているのは、論文や本から文献を探すとSiのバルクの正孔移動度が600cm2/Vsと書かれているものを探す方が難しいからです。文献からデータを引用しようと思ってとりあえず探した場合に、Siの正孔移動度が600cm2/Vsの文献に行きつく可能性は非常に低いと思います。(確率はゼロでは無いですが。)

まさか、ちょっと高めの移動度が記入されているなんて、誰も思わないでしょうし、今の今まで残っているということは、誰も何も言わなかった結果なんでしょう。(こんなことを、わざわざ確認しようとする私の方が異常者なんだと思います。)

結果的に、私自身一番違和感のない「表記が間違っていたので修正します」という形になって、個人的には良かったです。

想定外の結果から感じたこと

最後に、記事を書く時には予想もしていなかった結果だったので、私自身の感想を書きます。

日本のパワーデバイスの主要2社の感覚の違いです。おそらく企業文化が違うんだと思います。

引用元の文献があるが文献に記載されたデータの妥当性は検証していないという立ち位置と、引用元は不明だが数値が高すぎると判断して修正する立ち位置は、大きく違うように感じました。

どちらのお答えでも全く問題は無いですし、私としてはお答えいただいてありがとうございますという立場です。

企業運営のサイトでも、掲載している情報が誤っている可能性はあります。ただ、一般的にはサイトの利用規約・免責事項などに、「当サイトに掲載された内容によって生じた損害等の一切の責任を負いかねますので、ご了承ください。」と書いてあります。

私自身このサイトを運営していますが、免責事項の部分にしれっと書いてあるんです。(どこのサイトを見ても、ほぼ100%書いてあります。無料ブログでは、個別のサイトには書かれていないこともありますが、運営元の会社が免責事項で定めている場合が多いです。)

ですので、webページに記載されているデータが誤っていたとしても、運営元が責任を問われることは基本的にありません。
(余程悪意を持った風説の流布や、誹謗中傷となると話は変わってくると思いますが。)

600cm2/Vsに根拠があるかどうかというのは、正直どうでも話ではありますが、企業運営のサイトである以上内容を正しいと思って読む方が大半なので、もし世の中の文献とずれているのであれば、それなりの理由が必要なのではないかと感じます。

少し思うところはありましたが、このくらいにしておきます。

まとめ

この記事では、パワー半導体だとSiの正孔移動度が600cm2/Vsになるのか?について考えてきました。

当初は、タイポでしたというのが結論かと予測していましたが、根拠となる文献が存在したのは私自身驚きでした。

そういう意味で、文献やデータを引用する際には、データの妥当性をちゃんと考えなければいけないなとも感じさせられました。

読者の方の感想・コメント等ありましたら、お気軽に書いてくださいませ。(コメント欄に記入した名前は、管理者の私がコメント内容を承認すると公開されますので、ハンドルネームをご利用いただくようご注意ください。メールアドレスは、公開されません。)

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このブログでは、半導体に関する記事を他にも書いています。半導体メモリ業界が中心ですが、興味がある記事があれば読んでみてください。

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この記事はここまでです。最後まで読んでくださってありがとうございました。

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コメント

コメント一覧 (2件)

  • 私は卒業研究(GaN関連)の際には、こちらのパナソニックの技報の値を参考にしました。
    こちらもSiの正孔移動度は600cm2/Vsでした。
    https://holdings.panasonic/jp/corporate/technology/technology-journal/pdf/v5502/0105.pdf
    また、こちらの方の博士論文でもSiの正孔移動度は600cm2/Vsとして記載しています。
    https://u-fukui.repo.nii.ac.jp/record/25053/files/bd10123091-03.pdf
    たしかに、言われてみるとなんで600cm2/Vsなんですかね?

    • ぽこさん
      コメントありがとうございます。東急三崎口です。
      文献教えていただいて、ありがとうございます。
      Siの移動度なんて、普段あんまり考えないテーマなので、技報とかに書いてあるデータは疑わないですよね。
      他の文献でも、たしかに600cm2/Vsと書かれているものは、記事を書いたあとですが発見しました。
      しかし、だいたい表の中に数字が入っている形になっていて、
      参照した文献が明記されているものは現時点で見つかっておりません。
      私自身も、勉強不足なのかと思って色々調べてるんですが、理由がまだ突き止められておりません。
      分かり次第記事を更新しますので、しばらくお待ちくださいませ。
      今後ともよろしくお願いいたします。

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