みなさんこんにちは。このブログを書いている東急三崎口です。
今回は、すずめの戸締まり考察第三弾として、小説版を読んだうえで新しく気づいた考察と、小説版を読んだうえで導かれるダイジン・サダイジンの正体について考察します。
新海誠さんが書かれているすずめの戸締まりの小説版を読んだうえで、考察記事を書いていきます。最終的にひも解いていきたかったのは、ダイジン・サダイジンは何者なのか?ということです。考察記事の1本目と2本目の内容を前提に書いているので、まだご覧になっていない方は1本目と2本目を読んでからこの記事を読んでいただけると内容がわかりやすくなると思います。
この記事は、すずめの戸締まりを観ているor内容を知っている前提で書いています。まだ観られていない方は、ぜひ劇場でご覧になってください。映画の概要も記事にしていますが、なかなか文章だけで内容を理解するのは難しいと思います。(自分で書いていながらそう感じるので、興味がある方は劇場で観るのが一番です。)
映画と小説の違い
まず、前提としてすずめの戸締まりの映画と小説の違いについてざっと紹介します。小説版は、新海誠さんが書かれている本で、映画を小説化したような内容です。もし購入される予定の方は、下記サイトからどうぞ。
基本的に映画は、登場人物が明示的に発する言葉以外は、映像の中から聴衆(鑑賞している人のことを言っています)が人物の心理を推測するしかありません。なので、人物が明示的に発している言葉以外は、解釈の余地が生まれることになります。一方、小説版は文字媒体で書かれているため映画と違って、読者に映像として情報を渡すことができないので、登場人物の心象が文章の形で描かれています。一般的な映画の場合、聴衆にほとんどの情報が明示的に渡されるため、それほど解釈の余地がないことが多いです。しかし、すずめの戸締まりの場合、明示的に描かれていない部分が多く、映画を観るだけではなぜそうなったのか?(ダイジン・サダイジンが何者なのか?ということもその中に入ります)ということがわからない部分が多いです。エヴァンゲリオンも似たようなところがあると思いますが、作中で明確に描かれていない部分が多いからこそ、聴衆による解釈の余地が生まれるわけです。エヴァンゲリオンには小説版はありませんが、(出たらめちゃくちゃ売れそうですけど、書けるとしたら庵野監督だけでしょうから、たぶん永遠に出ないでしょうね。)すずめの戸締まりには、幸いにも小説版があるので、小説にある登場人物の心理描写を手掛かりに内容を考察していこうというわけです。
他の考察動画でも指摘されていますが、映画版で描かれていて小説版で登場しないシーンは、鈴芽が草太の祖父である羊郎を訪れたあと、羊郎とダイジンがやりとりをするシーンです。小説版では、鈴芽が羊郎とやりとりをしたあと、ダイジンが登場することはなく、そのまま鈴芽が草太の部屋に向かい宮城を目指します。
一方、小説版で描かれていて映画で出てこない描写はたくさんありました。おそらく、新海監督は物語を書くときには登場人物の細かい心理まで作りこんでいるんでしょうが(そうでなければ、登場人物の心理などで描かれていない部分がたくさんありながら、1つの作品として成立させることはできないはずです。)、実際の映画では意図的に省かれている部分だと思われます。ですので、この考察記事では小説に書かれている登場人物の心理描写をキーにして考察していきます。
なぜ鈴芽には常世が見えるのか
まずは、なぜ鈴芽には常世が見えるのかという謎です。これは、第二弾の考察記事で「宮崎で後ろ戸を開けた時、常世が見えなかったのはなぜか」というタイトルで考察を書いたんですが、丸丸間違っていたことになります。すいません。映画を観た段階では、私は宮崎で鈴芽が初めて後ろ戸を開けたときに、常世は見えていないと思い込んでいました。小説版(p22)を読むと、
「ドアの中には夜があった」
小説 すずめの戸締まりp22
と明確に書かれてました。つまり、鈴芽には後ろ戸を開けて常世を見る力がもともとあったということになります。とすると、鈴芽はいつ常世を見る力を手にしたのでしょうか。鈴芽が常世を見る力を持ったタイミングは、4歳の頃亡くなった母を探して扉を開けて常世に迷いこんだ時だと考えられます。
常世は、死者の世界であり通常は、生きている人間のいる世界である現世からは見えないはずの世界です。4歳の鈴芽が母を探して廃墟の中を歩いているときに、謎の扉を開けて常世に入り込む描写が夢の中でありますが、この時鈴芽は、死の世界(つまり常世)に近づいていたんだと思われます。実際問題4歳の子供が雪が降る春先に、外をずっと歩いていたらいつ死んでしまってもおかしくありません。小説版(p243)に鈴芽自身の言葉として、
「生きるか死ぬかなんてただの運なんだって、私、小さい頃からずっと思ってきました。でもー」
小説 すずめの戸締まりp243
とあります。これは、鈴芽の母親が死んでしまったことを機に、鈴芽が死ぬことへの恐怖は無いと思って生きてきたことをはっきりと示しています。「生きるか死ぬかなんてただの運」ということは、「たまたま運よく自分は生きているが、運が悪ければ死んでいた」ことを示しています。
鈴芽は、このような心情を持っているからこそ、現世に生きながら閉じ師でもないのに、常世を見ることができるんだと考えています。実際、このような心情が描かれている登場人物は鈴芽以外にはいません。
SAでのサダイジンの登場
次に考えるのは、宮城へ行く途中のサービスエリアでの、サダイジンの登場シーンです。このシーンは、映画を観て一番理解できなかったシーンでした。ダイジン・サダイジンについては第二弾の考察記事の中で、現実世界の要石と心理的な要石が作中に存在することを前提に、登場人物のそれぞれの親の象徴なのではないかという解釈を提示しました。小説版を読んでも大枠の解釈は変わっていませんが、映画で出てきていない描写がいくつかあったのでそれをもとに改めて考えていきます。
環さんが考えていたこと
鈴芽・環さん・芹澤は、宮城へ行く途中で雨が降ってきたことで、サービスエリアへ立ち寄ります。環さん・芹澤は、それぞれ食事をとりますが、鈴芽は食事をとらずに車の中でひたすら草太のことを思っています。環さんは、鈴芽がなぜそこまでして実家に戻り草太という男に会いたいのかについて、環さんなりの解釈をしていました。これは、映画では描かれていない部分です。小説版(p277)では、環さんの心情がこう描かれています。
「(前略)、彼女なりのアイデンティティの確認作業のようなものかもしれない。(中略)。久しぶりに実家に帰り、気持ちを整理して、また本来の生活に戻る。そういう誰にでもあるごく普通の通過儀礼のようなものを、鈴芽はしようとしているのだ。」
小説 すずめの戸締まりp277
この段階では稔さんに電話はしておらず、環さんが鈴芽の理解できない行動を環さんなりに解釈した考えです。この時点では、環さんは鈴芽が実家に帰って、草太という男と会って自分のアイデンティティを確認し、もとの生活(宮崎での二人暮らし)に戻るんだと考えています。ここでは、思春期独特の自身のアイデンティティの確認作業を行っているんだという程度の考えで、鈴芽が真に何を求めて実家に向かっているのかについては考えが及んでいないわけです。加えて、現世の世界だけですべてが完結するような感覚も抱きます。もともと、環さんには常世は見えないわけですから、そんな世界について思いを巡らすこともできないわけですが。
鈴芽が実家に行って、アイデンティティを確認し宮崎に戻るのであれば、2日後くらいから出社だろうと思った環さんは稔さんに電話します。そこで、稔さんが東京行きの高速バスが出ているから、すぐ東京に戻れることを伝えます。環さんは、宮城まで来たのだから実家には行くつもりなことを稔さんに伝えながらも違和感を感じ始めます。自分自身と鈴芽に起こっていることを、第三者に冷静に説明することで自分の考えが自分を納得させるための建前になっていたことに気づくわけです。
ここで環さんの感覚が変化します。小説版(p279)の中では、こう表現されています。
「(前略)。環さんは自分の中の違和感を、その不吉な予感を話しながらようやく認める。たぶん私が期待するようには、物事は簡単には進まない。鈴芽の考えていること、抱いていることは、たぶん、私の想像を遥かに超えている。環さんは理由もなく、でも本能的にそう確信する。」
小説 すずめの戸締まり p279
つまり、環さんは稔さんと話している中で、鈴芽の行動は環さん自身が思っていることを遥かに超えていることと、環さんが「不吉」だと予感できてしまうことであることを認識したわけです。ここで、「私の想像を遥かに超えている」というのは、環さんが見ることのできない常世に鈴芽が行こうとしていることを示していて、「不吉な予感」は、鈴芽が草太の代わりに要石になって現世には戻ってこないことを示していると考えられます。よく考えると、鈴芽はこの時点では常世に行って草太を元の姿に戻そうとしているものの、草太を元の姿に戻すということは、ミミズを封印する別の「要石」が必要になるわけで、自分自身が要石になろうと思っている以上、鈴芽は現世には戻れないことを意味しています。これを環さんは、本能的に確信したということになります。このあと、環さんは鈴芽を家に連れて帰ろうとして、口論が勃発します。ここで不思議なのは、宮城までついてきたのにもかかわらず、このタイミングで環さんが鈴芽を無理やり連れて帰ろうとした理由です。
環さんが鈴芽を連れて帰ろうとしたきっかけとは
環さんと鈴芽の口論のトリガーになったのは、環さんが無理矢理鈴芽を宮崎に連れて帰ろうとしたことです。よく考えると、不思議ですよね。宮城まで来たのであれば鈴芽の実家は目と鼻の先です。そこまで行ったのであれば、鈴芽の実家まで行けばいいではないか。わざわざサービスエリアで連れて帰ろうとしたのか。と思いませんか。環さんが鈴芽をサービスエリアで連れて帰ろうとした、表面的な理由は稔さんが東京行きの高速バスがあると伝えたことがきっかけのように見えますが、私はそれは表面的な理由に過ぎないと考えています。というのは、鈴芽の実家の近くのサービスエリアから東京行きの高速バスが出ていたとしても、「今すぐ連れて帰る」という選択には結びつかないからです。実家に行ってから帰ればいいじゃないかという話です。
それでは、なぜ環さんは鈴芽を連れて帰ろうとしたのでしょうか。それは、環さんが自分の中の違和感に気づき、このまま鈴芽が実家に戻ってしまったら一生鈴芽が帰ってこないことを予感したからと考えられます。前節で説明した環さんの考えの中で大事なのは、鈴芽の行動が「自分の想像を遥かに超えている」ことと、それが何なのかはっきりわからないにもかかわらず「不吉な予感」がしていることです。自分の想像を遥かに超えた超自然的な力に導かれて、鈴芽が別の世界に行ってしまう予感とでも言えるでしょうか。このあと、環さんは鈴芽に対して「うちから出てってよ」と言っていますが、これまで12年ともに過ごした鈴芽を失いたいわけはありません。そもそも、地震によって既に姉の椿芽を亡くしているわけですから。鈴芽がその方向に向かっていることを確信したからこそ、環さんは自分のいる世界(現世)に鈴芽を引き戻そうとしたんだと考えられます。
環さんはうちの子になろうと言ったこと覚えていたのか
鈴芽を現世の方向に引き戻そうとする環さんの気持ちは、鈴芽によって拒絶されます。このあと、環さんと鈴芽が口論するシーンは、方言の言い回しを除いて映画でも小説でも同じです。鈴芽が環さんに向かって、「うちの子になれって言ったのは環さんだ」と言いますが、環さんは「そんなの覚えちょらん」と覚えていないことがセリフで明示されています。このシーンを映画を観たときには、単純に12年前だから環さんは忘れていたのか?と思っていました。しかし、そう話は単純ではありませんでした。鈴芽・芹澤・環さんの3人で宮城を目指す車中での描写の中で、環さんが鈴芽に「うちの子になろう」と言ったことを覚えていることが明確に書かれていたんです。小説版(p263)ではこのように書かれています。
「たまらなく切なくて、環さんは私をー幼い鈴芽をきつく抱きしめ、「うちの子になりんさい」と涙を流しながら言ったのだ。あの時に抱いた体の小ささと冷たさを、環さんは今でもくっきりと覚えている。」
小説 すずめの戸締まりp263
いやあ、環さんは幼い鈴芽に言ったことをちゃんと覚えてるじゃないですか。揚げ足を取るとすれば、直接的に環さんが覚えていると書かれているのは「あの時に抱いた体の小ささと冷たさ」だから、言ったことを覚えているとは書かれていないじゃないかと言うこともできないわけではないです。しかし、環さんと幼い鈴芽のエピソードについて、環さんがはっきり覚えていると書かれているので、環さんが鈴芽に言った言葉だけを忘れていると解釈するのは不自然だと思います。このことから、環さんは4歳の鈴芽に言った「うちの子になりんさい」という言葉は覚えていると考えられます。では、鈴芽と口論していた環さんは覚えているはずのことを「そんなこと覚えちょらん」と言ったのでしょうか。
サダイジンは環さんに憑依していたのか
ここで、サダイジンの登場シーンを考えてみます。第二弾の考察記事で、現実世界の要石と心理的な要石の観点から、環さんはサダイジンに憑依されていないという立場でこのシーンを解釈しました。ただ、小説版を読んで改めて考えてみると環さんがサダイジンに憑依されていたのかは置いておいて、鈴芽に「そんなこと覚えちょらん」と言った言葉は少なくとも環さんの見た目はしているものの、環さん以外の何物かの言葉であると考えるのが妥当なのではないかと思いました。というのは、環さんが「私の人生返してよ」と言われたシーンのあと、鈴芽が「あなた 誰?」と問う間に、環さんが環さんではないことを鈴芽が認識していることが明確に書かれているからです。小説版(p286)では、このように書かれています。
「環さんの口の端が笑っている。「私の人生返しんさい!」それなのに環さんの目は泣いている。違う、とその瞬間に私は思う。これは環さんじゃない。」
小説 すずめの戸締まりp286
鈴芽の視点から、「私の人生返しんさい!」と言った環さんは、少なくとも本来の環さんではないように見えていることがわかります。そして、別人だと感じたため何者なのか尋ねるシーンは小説版(p286)ではこんな描写です。
「「あなたー」私は思わず尋ねる。「誰?」「サダイジン」子供の声がそう言った。」
小説 すずめの戸締まりp286
サダイジンと言ったのが、子供の声だとはっきり書かれていますし、このあとサダイジンが実体化するのでこのあたりの環さんの言葉がサダイジンが発していたことが明確に読み取れます。環さんと鈴芽の口論のシーンで環さんの言葉がどこからサダイジンの言葉になっているのかは、明確にはわかりませんが、環さんが鈴芽をどれだけ心配してきたかを伝えたあとに、鈴芽が「それが私には重いの。」と言ったところからだと私は考えています。というのは、ここから「環さんの目がはっと見開く~」という描写で、環さんの体の動きに変化があったことが書かれているので、そこで環さんの心理的な要石が外れて、それに呼応する形で言葉がサダイジンのものに変わったのではないかと思っています。心理的な要石と、現実世界の要石については、第二弾で考察したとおりです。
環さんと鈴芽の口論を経て、サダイジンは実体化したわけですが、なぜこのタイミングでサダイジンが実体化したのでしょうか。ここからは、少し根拠の薄い考察ですが、鈴芽が環さんとの関係性を失うまでの覚悟をして、実際に環さんとの関係性が崩壊したことがトリガーとなって、サダイジンが実体化したという説を取ります。第二弾で詳しく考察しましたが、鈴芽は自身が代わりに要石となる覚悟で常世へ向かっているわけです。このシーンで環さんは、常世に向かっている鈴芽を現世に引き戻そうとする存在です。そんな存在を振り切ってまで、常世に向かおうとする鈴芽に対して、助け舟を出す形でサダイジンが実体化したと考えるしかないのではないでしょうか。実際に、サダイジンがいなければ鈴芽と草太が現世に戻ることはできなかったわけですし。釈然としない部分もあるかと思いますが、ここのエピソードは結局ダイジン・サダイジンの正体は何なのかについて考えるヒントになっていると私は思っています。
かりそめの顕現ならば本当の姿は?
ダイジン・サダイジンの正体について考える前に、作中でダイジンについて草太が言っていたことを振りかえってみます。まず、宮崎でネコになったダイジンを見て「要石に戻れ」と言っています。つまり、ダイジンはもともと要石だった存在なわけです。また、神戸にいるダイジンに対して、「気まぐれは神の本質だからな」とも言っています。また、東京の草太の家で要石について鈴芽に聞かれた時には、「あの形は、かりそめの顕現だよ」と言っています。これらのことから、ダイジンについては3つのことがわかります。
- もともと要石だった
- 神に近い存在
- ネコの姿はかりそめであり、本当の姿は別にある
これだけでは情報が足りないので、草太がイスの姿になって要石になったときのことを考えてみます。草太がそもそもイスの姿になったのは、ダイジンから「おまえは じゃま」と言われて呪いを掛けられてしまったからです。また、イスの姿になると段々と意識がある時間が短くなっていくことがわかります。そして、草太の心理描写から、要石になると動物の骨が並んだ海辺にあるイスに固定され、体が凍っていくこともわかっています。イスの前には扉がありますが、その扉を自らの手で開けることはできません。また、羊郎の言葉から「時間をかけて神に近い存在になっていく」こともわかります。そして、大前提として要石はおそらく人間が形を変えたものです。そもそも、閉じ師や常世が見える人間でなければ、要石を封印したり要石になることはできないはずですから。これらのことを整理するとこのようになります。
- 呪いを掛けられると要石になる
- 意識を持てる時間が短くなっていく
- 自らの力では要石から戻ることはできない
- 時間をかけて神に近い存在になる
- 人間が形を変えたもの
この要素を考えてみると、ダイジン・サダイジンはもともと人間だったことは明白です。現世で実体化しているときは、ネコの姿をしていますが、それはあくまでもかりそめの顕現であり、本当の姿は別にあるわけです。また、要石は神に近い存在になっており自らの力で要石から元の姿に戻ることはできないこともキーポイントです。この前提に立って、ダイジン・サダイジンの正体について考えていきます。
結局ダイジン・サダイジンの正体は何なのか
さて、ここまで色々考察してきましたが、結局ダイジン・サダイジンの正体は何なんでしょうか。
端的に言うと、ダイジン・サダイジンの正体は人間であり、過去に災害を鎮めるため神にささげられた人柱です。ダイジンは、鈴芽に寄り添い鈴芽の旅の手助けをして、最後は再び要石に戻ることを選んでいます。また、サダイジンは黒猫として実体化したあと、草太の願いを聞き入れ再び要石となっています。
要石は常世にある存在で、常世にいるということは死者の世界にいるということを意味します。常世を見ることのできる人以外にとって、後ろ戸を見ても常世を見ることができず、その世界が存在することができません。つまり、要石になるということは、常世を見ることのできる限られた人間の中から選ばれた者の役目だったと考えられます。災害が起こりかけているときに、究極の自己犠牲として人柱になり災害を食い止める役割を担っているのだと思います。
これは、羊郎と鈴芽の会話の中でも少しヒントがあります。小説版(p240)ではこう書かれています。
「草太はこれから何十年もかけ、神を宿した要石になっていく。現世の私たちの手は、もう届かん。(中略)あなたには分からんだろうが、それは人の身には望み得ぬほどの誉れなのだよ。草太は不出来な弟子だったがーそうか、最後に覚悟を示したか……」
小説 すずめの戸締まりp240
つまり、要石になることは神に近づくことであり、人間としては望み得ぬほどの誉れだと書かれています。そして、最後に覚悟を示したか…とあります。これは、閉じ師のような常世が見える人間にとって、要石になることは一つの役目であり自分を犠牲にしたとしても覚悟を決めて受け入れざるを得ないことであることを示しています。ここから、要石になるということは現世に生きる人間が人柱になり常世に行くこと、そして覚悟を決めてその役割を引き受ける人がいるということがわかります。
ダイジン・サダイジンの正体が人間であることはわかったとして、作中でダイジンがやっていた行動について、合点がいかない方もいらっしゃると思います。ダイジンの行動は、一見すると鈴芽と草太を振り回しているように見えます。しかし、ダイジンの行動が二人を振り回していたわけではないことは、鈴芽自身の言葉で表現されています。宮城で鈴芽が過去に開いた後ろ戸をダイジンが教えてくれたシーンでの、小説版(p316)の表現ではこうなっています。
「「ダイジン、あんたもしかしてー」ある考えが、突然私の頭を打った。「後ろ戸を開けてたんじゃなくて、後ろ戸がある場所に、私を案内してくれてたの⁉」(中略)「今までーずっと……?」自然に気持ちが湧きあがってきて、私は素直に口にした。「ありがとう、ダイジン!」」
小説 すずめの戸締まりp316
つまり、ダイジンは二人を振り回しているように見えながら、後ろ戸が開く場所を鈴芽に教えていたわけなんですね。それでは、ダイジンは二人を振り回しているように見せかけてなぜそんなことをしたんでしょうか。しかも、草太をイスの形にしてまで。
ここからは、第二弾の考察と被りますが私の解釈を書きます。要石は常世の世界にいるものであり、常世の世界とは、死者の場所かつ全ての時間が等しくある場所という世界設定です。そして、鈴芽の母親は12年前に亡くなっています。鈴芽が宮崎の要石を抜いたことで、実体化したダイジンの形を借りて、鈴芽の母親がダイジンに乗る形で、鈴芽のサポートをしていたのではないかという説です。ダイジンが鈴芽の母親だという描写は、作中には一切出てきませんが、鈴芽に拒絶されても寄り添い続け、最後は究極の自己犠牲として自らが要石に戻るという形で鈴芽を助けています。映画で出てきていなかった描写がそれを裏付ける形になっていました。鈴芽たちが、宮城で見つけた後ろ戸から常世に入るシーンを見ていた環さんの言葉です。小説版(p318)では、このように書かれています。
「お姉ちゃんー。どこにも繋がっていないドアを見つめながら、環さんは思った。もしそこにいるのならばーお願い、鈴芽を守って。」
小説 すずめの戸締まりp318
環さんには常世は見えないので、鈴芽が行った先の世界が見えるわけもありません。しかし、超自然的な力があることを認識し、その世界で鈴芽を守ってほしいと、亡くなった姉である鈴芽の母に祈っているのです。そして、常世の世界で鈴芽を助けるのは紛れもないダイジンであることを考えると、ダイジンは神の力を宿した鈴芽の母親の転生した姿だと私は考えています。
サダイジンについては、最終的に草太の願いを聞き入れて要石となっていることと、鈴芽とダイジンの関係を考えて、草太の父が神の力を宿して転生した姿なのではないかと考えています。草太とサダイジンの関係性は、草太が常世にいるときにサダイジンが出現したので、明確に描かれてはいません。しかし、サダイジンはもともと東京の要石であったことは明らかですし、最後に要石になっています。また、草太の父に関して作中では描写がありませんでしたが、閉じ師の一族であることから、草太の父も閉じ師であったことは容易に想像できます。そして、その父が生きている描写が一つもなく、草太自身が祖父のことを「育ての親」だと言っていることから、亡くなっていることがわかります。このことから、草太の父も常世にいるわけですから、サダイジンの形を借りて草太を助ける役割を担っていたと考えられます。
以上が、ダイジン・サダイジンの正体についての私の考察です。別の解釈があれば、ぜひ教えていただきたいので、コメントお願いします。
ダイジン・サダイジンが鈴芽に願ったこと
ここからは、ダイジン・サダイジンの正体はわかったとして、作品を理解するうえで重要だと私が思うことについて書いていきます。まずは、ダイジン・サダイジンが鈴芽とともに常世に行った意味合いについてです。
ダイジンとサダイジンが鈴芽に求めていることは、彼らの言葉を借りると「人の手で元の姿に戻して」ということです。要石をミミズに刺すことは、常世が見える人間にしかできないことです。また、要石が自分の力でミミズに刺さることはできないようです。そして、草太が要石となり、羊郎が病床にあり動けず、草太の父がなくなっているであろうことを考えると、草太が要石になった時点で常世に行って、要石を刺せる人間は鈴芽しかいなかったことになります。つまり、ダイジンとサダイジンの立場に立つと、鈴芽が過去に開けた後ろ戸を探して常世に入ることしか、自分たちが要石になる方法が無かったわけです。それえを考えると、ダイジン・サダイジンは常世に向かっていた時点で、自分たちが再び要石になる覚悟があったということなんでしょう。
すずめと鈴芽のやりとりの意味
次に着目したいのが、鈴芽が常世で4歳のすずめと出会って言葉を交わすシーンです。ここは、やりとりが長いですが、注目すべき点が2つあります。1つ目は16歳の鈴芽の心境の変化で、2つ目は16歳の鈴芽が4歳のすずめに渡したものです。
1つ目の16歳の鈴芽の心境の変化として大きいのは、過去の自分の夢に出てくる母親だと思っていた人が、未来の鈴芽自身だったと気づいたことです。これに気づいた瞬間、自分が夢の中、そして自分の心に中に持っていた、母親には夢では会えるし、いつか会えるのではないかという感覚が消えたことがわかります。そして、4歳のすずめが、母親を探しているのを見て、4歳のすずめも母親が亡くなっていることには薄々気づいていたこと、そして、それを認めたくないがために、ずっと母親を探し続けていたことを理解します。このやりとりを経て、16歳の鈴芽は自身の中に持っていた感情を消化したうえで、4歳のすずめに渡せるものを考えます。
2つ目の、16歳の鈴芽が4歳のすずめに渡したものは、今は孤独だったとしても未来に希望を持って生きていくことはできることを4歳のすずめに約束すること、すなわちすずめの未来の約束です。孤独に生きているときに、未来への希望が無ければ世界は暗いものになってしまい、かつそれが幼ければ幼いほど強烈なものになります。4歳のすずめが母を亡くして、一人ぼっちにならないようにすずめの未来を約束することが、12年後の自分ができる最大限の贈り物だったのではないでしょうか。
こうやって、16歳の鈴芽の視点から自身の感情を消化することと、4歳のすずめに対して16歳の鈴芽が未来を約束するというのが、このシーンの大きな役割だったんだと思います。
おわりに
ここまで、長々考察を書いてきました。考察記事は、今までは読むことばかりで自分で書いたことはありませんでした。自分で書いて思うのは、読むのは一瞬だけど、書くのはこんなに大変なのかという気持ちです。ノートに時系列や人間関係を書き並べながら、考えていくわけですけど、すでにある作品を考察するだけでも大変です。そう考えると、1からストーリーを考えて映像作品を作っていくクリエーターのすごさを実感することができました。この考察記事も、公開から2~3日考えて考えて書いているわけですが、作品を作っていく立場であれば、年単位の時間をかけて1つの作品を作っているわけですよね。そう思うと、その情熱とパワーは計り知れないものがあります。本当に、すごいと思いました。これで、すずめの戸締まりの考察記事に関しては、いったん終了の予定です。もし、考察してほしい場面等がありましたら、コメントかお問い合わせフォームから、ご連絡いただければ書きたいと思っています。
まとめ
今回は、すずめの戸締まりの考察第三弾として、小説版を読んだうえでダイジン・サダイジンが結局何者なのかについて解釈しました。長くなりましたが、今回の記事はここまでです。記事の中でわからないことがあったり、明らかに違うだろうと思われることがありましたら、コメント等をいただけると嬉しいです。それでは、次回の記事でお会いしましょう。
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